ファン・フローレスとサッカーの出会い、そして・・・

1960年7月11日、ペルー・アヤクチョ県ウアンカ郡で、父セサル・フローレス、母フェリシタス・サルバティエラ・デ・フローレスの間に生まれました。大家族とともにウアンカ郡で幼少期を過ごし、その後アヤクチョ県の首都へ移り住みました。そこで初めてボール遊びを覚え、小学校2年生の時に、優れた教育施設のひとつとされるアヤクチョのルイス・カランサ#611校の選抜選手となりました。同校ではサッカーで活躍して、いろいろなニックネームで呼ばれて親しまれていました。

3〜7才の年少期はジュニア・ソル通りに住んでいました。7歳の時にガルシラソ通りに引越し9歳まで過ごしたのですが、ここでボール遊びをする仲間がたくさんできました。9才の時マグダレナ地区に引越し11才まで住みました。そしてその後、栄光、苦しみ、喜び、悲しみの全てを経験した土地であるアヤクチョ県サンタ・ベルサ地区へ移りました。
初めは近所の仲間たちと、母たちが古着を詰め物にして作ったボールや、牛の胃袋の中に新聞や古着を詰めて作ったボールを追いかけて遊んでいました。家に帰るのも忘れてしまうほど毎日サッカーをしていたので、靴が壊れてしまい、たびたびサッカーシューズを修理しなければなりませんでした。ズボンも砂だらけの汗まみれですぐに駄目になってしまいました。しかしボールを追いかけることをとても楽しんでいました。こうして集まった仲間たちと私の兄弟とで地域グループ、サンタ・ベルサを結成し、フットサルのトーナメントを始めました。そして、アヤクチョ県ペルーサッカー協会の主催するトーナメントのカリチネ・カテゴリー(チームの構成が8〜10歳の子供の部)に参加するためのシャツやボールを買う資金集めとして、くじ引きやビンゴなどを開催しました。そうするうち、老若を問わず興味を持つ人々が増えてきて、この町のいろいろな他地区からも参加者が現れ、私達の地区は有名になっていきました。アリアンサ・リマ、ムニシパル、デフェンソル・チャラコなどの有名チームが試合をしたという巨大なサッカー競技場であるレオンシオ・プラドで試合をするというのが私達の目下の夢でした。井の中の蛙であった私は、子供の頃からプロのサッカー選手になるという大それた夢を抱いていました。

1971〜1972年の間、アヤクチョ県のマリスカル・カセレス校に通っていました。同校ではクラス対抗のサッカー大会がありました。他のクラスに負けたくないと願う仲間たちと、サッカーを愛する教師トゥンバロボの指導の下、強いチームを結成して大会制覇を目指しました。トゥンバロボは全試合を指揮して私達を何度か優勝に導きました。努力の甲斐があって、私達のチームはマリスカル・カセレス校の上級生選抜チームに召集され、首都の有名なホセ・ディアス国立スタジアムで試合をすることができたのは光栄の至りでした。あの歴史的に偉大な選手であるペレ、マラドーナ、ロロ・フェルナンデス、ビジャヌエバ、クビージャス、クエト、ソティル、そしてアメリカ大陸が産んだ偉大なキャプテン、エクトル・チュンピタス(1944年生まれ。ペルー代表W杯出場)等の南米のワールドカップ出場選手たちが踏んだ同じ芝を踏み、そこで試合をして良い成績を残すことができたことは正に夢のようでした。経済的に余裕がなかったためレオニシオ・プラド中央軍事施設(リマ)に宿泊しました。このような経験の積み重ねにより、ウアヌコ、ウアンカジョ、ウアンカベリカ、イカなどペルー国内の他郡へもたびたび招待されるようになりました。首都のユースチームからの誘いもあったのですが、私がまだほんの子供で、他の進路の選択肢も考えるべきという両親の反対にあい首都のクラブへ行くことはできませんでした。

こうして地元アヤクチョに戻り、すぐにフベントゥ・グロリア・デ・アヤクチョという2軍のアマチュアチームに誘われました。当時私は12歳で、全てが最高でした。私が初めて在籍したこの2軍チームが優勝し、初めての強い男子アマチュアチームとして1軍への昇格を成し遂げたからです。ここでの活躍と真面目な性格が効を奏し、私が愛し、私の誕生を見守り、サッカー界の大物選手になりたいと切望する少年だった私の人生の最初のステップとなったウアンタ県のディナモチームと契約を結びました。このチームには多大な経済的、倫理的、精神的援助を受け、また当時の指導者、友人、両親、先輩たちに助けられました。私も多くのゴールを挙げてチームに貢献し、強いサッカーとなるような成果をあげました。このディナモチームは、高レベルの技術を持った地元ウアンタ出身の名選手で構成された強いチームであり、更なるチームの躍進を熱望していた地元民を喜ばせました。チームは徐々に勢いを増し、名門センテナリオ・デ・アヤクチョやアリアンサ・フアマンガ・ペニャロルなどのアヤクチョ郡チームと試合をするまでになりました。私は同ウアンタ県の他チームからの誘いを受けましたが、経済的にも条件が良く、ペルーカップでも毎年活躍していた名門であったウラカン・デ・ウアンタと契約し、地方、地区、郡、県レベルの各大会で勝利をおさめ、さらに多くの優勝を手にしました。このとても強いチームはペルーサッカーの名チームとも称されるウニベルシタリオ・デ・デポルテス・デ・リマやムニシパルなどの首都チームとの親善試合も行なっていました。こうして述べてきたのは、私達がどんな状況で練習を行なっていたかを知っていただくためで、これらの経験は私のスポーツ活動の中に凝縮されています。このような素晴らしい経験は何物にも変えがたいものです。しかし一番の問題は両親の反対でした。というのも彼らは私を医学関係の仕事、医者、弁護士に就かせたがっていたので、サッカー選手になるということは非常に大変なことでした。それでも、両親に秘密で自分の力だけでウアンカベリカやタンボ、リオ・アプリマック、アンダウアイラス、アバンカイ等の様々な場所へ遠征試合をしに行くことを決意していました。自分で荷造りをし、ペルー各地で試合をするのはとても楽しいことでした。こうしてプーノへ旅行することに決め、サン・ロマンのフリアカ市に留まることにしました。そしてこのよそ者は、バンカリオスのクラブチームの施設でフットサルの試合に参加し、その施設内にいた人々を感心させ質問攻めにさせたのです。君は誰なのか、どこから来たのか、何をしていたのか、何をしに来たのか、洗練されたボールタッチとテクニック、プロ並のパスからプロのサッカー選手に違いないだろうなどとアシスタントたちから質問攻めにあい、試合が終わってからバンカリオス連盟のメンバーに会わされて個人的な会話をし、どこ出身か、どこから来たのか、そこで何をしていたのか、セールスマンか何かなのか、とかいうような質問をされましたが、私は自分の力を試しに来たことと、私の望む条件を言うと、これまでの質問は忘れて皆黙り、私の活躍が気に入ったため全ての条件をのみました。

こうして目覚めのよい空の綺麗な日に全てが始まったのです。私は若年のうちからこのような経験をし、自分の素質はチームの向上に貢献するであろうことを確信していました。契約交渉してフリアカのバンコス・ウニドスというチームに登録したのです。この銀行員ディアスとチームコーチの率いる、ほとんどがアマチュア選手で構成された1軍リ―グチームは、その年、地域、地区、郡、県レベルの試合をしてよい成績を残しました。その後より優れたサッカーをして堂々とプロサッカーに昇格し、泡のように頂点に昇りつめました。全てはフリアカのバンコス・ウニドスという名前の下に固く結束した非常に強いチームの、プロフェッショナルで謙虚な活躍の成果でした。私は選手として思い描いていた最高の夢が実現しつつあることを確信し、その夢は着実にふくらんでいきました。フリアカのサン・ロマンの選抜選手にも選ばれ、著名なプーノのトレス・ベロンで試合をして再びチャンピオンに輝きました。私の夢はペルーで最大のチームであり、一番好きなチームであるアリアンサ・リマで試合をすることだったので、失敗しないよう、気を抜かないよう、トレーニングし続けました。しかし日に日に私のプロとしてのキャリアの責任が重くのしかかってきました。
以下にバンコス・ウニドスチームが試合をしたチームを列挙すると、
地区戦:ランパ
県 戦:ウアンカネ
郡 戦:プーノ(アルフォンソ・ウガルテ)、アレキパ(アウロラ)、
    イロ(マリスカル・ニエト・デ・イロ)、モケグア、
    タクナ(ボロネシ)、クスコ(ガルシラソ)
地方戦:クスコ(シエンシアノ)、アレキパ(メルガル)、
    タクナ(ボロネシ)、フリアカ(ディアブォス・ロハス)等
地道で謙虚な活躍が実り、栄光の年となりました。フリアカのディアボロス・ロホスなどの様々なプロ・サッカーチームを渡り歩き、サルバドール・サルゲロ、グジョ・ラミレス、ウィルソン・ラミレス、リベロ・カリサレスなどのペルーサッカー界の重要選手たちと知己を持ちました。その後プーノのアルフォンソ・ウガルテへ移り、より経験を積むと同時にジョロ・ビサやネイラ兄弟らと貴重な親交を持ちました。ウガルテでの在籍は経済的に問題があったことから、あまり良いものではなかったのですがそれでも幸せでした。なぜなら崇拝者とよばれるサポーター集団は私がこの町にもたらした大きな喜びを決して忘れることはないだろうことを知っていたからです。

もちろん他の進路も考えていて、ちょうどシンシアノとバンコス・ウニドスの試合があったときにクラブ・シンシアノの社長が、私が彼のクラブと契約したいかどうか交渉してきたので、願ってもないことと思い承諾しました。このことは私にとってつらいことでもありました。というのはこれまでのチームを本当に大切に思っており、私をプロにし、ペルーサッカー界において最善の機会を与えてくれた同チームを去ることは本当に辛かったからです。なにはともあれ、悲しみつつ荷物をまとめて新天地へと出発しました。こうしてクスコのクラブ・シンシアノの代表者との交渉が成立し、先生でありコーチであるビラの指揮下に置かれました。私にとってこれはたいへんおもしろいことでした。というのも学生の頃から彼を知っており、この偉大なチームを率いていること、さらに私のコーチになったことは驚きで、いろいろな昔話をしました。彼はアヤクチョ出身で元U.N.S.C.H(ウアマンガ大学)の教師でもあり、同郷人だったため、彼はコーチとして、私は選手としてどちらがより成長することができるかというのが私の個人的な挑戦となりました。この挑戦が具体的な動機となり、日々練習と試合を積み重ねていったおかげで、よいポジションを得ることができました。私はこの一流チームに在籍してガルシラソ・スタジアムで試合をしているからには、辛口の民衆を満足させようと試みました。また、このブラジルなど南米の有力チームや完成度の高い選手たちが試合をするスタジアムで試合ができたことも誇りに思っています。

私は司令塔でこそありませんでしたが、タクナのボロネシ、アレキパのメルガル、クスコのシンシアノなどの伝統的な南部チームで、南部で行なわれる各試合において歩兵として活躍しました。特にシンシアノは1986年にオクトゴナル大会で試合をすることができる一流のチームのひとつとしての成績をおさめ、リベルタドール杯行きの切符を手が手に入りそうだったのですが、運悪く名門チームであるムニシパルに敗れ、地元へ戻るしかありませんでした。その時から結束が固まり、私を支えてくれ、地元に愛されているこのチームがもっと好きになりました。異なった観点や基準から様々な考え方をする様々なコーチ達(ビラ、チト・ラ・トレ、ディエゴ・アウグルト等)に出会い、それぞれの持つ素晴らしい概念を学んでより経験を積んでいくことができました。そしてプロ選手として多くの試合に出場し、ウスカマイタ、サンチェス、ビジャフエルテ、チャベス、ポンセ、ロボン、ウガス・エル・ビエホ、バリエントス、パディージャ、モレノ、エル・チュチョ・アギラルなどの素晴らしい仲間と出会いました。生粋のクスコ人の中で私フアン・G・フローレス・Sは、ほくろ的存在でした。

その当時、クスコ市でのサッカー熱はさめやらず、グアウ・デ・ピウラ、プカジャパ・スポルティング・クリスタル、カジャオのスポーツ・ボーイズ、イカ、アレキパのメルガル、リマのムニシパルなどクスコに遠征してくる全てのチームに勝利していました。すべては真面目に練習してきた成果であり、カピタル・デル・クルトゥラル・デ・ラ・ウマニダ・クスコ新聞は、フアン・フローレスをピッチでの活躍をしてガルシラソのライオンと呼びました。この素晴らしいチームでの活躍から、私はクスコのシンシアノの“フォルタ(「強い」の意)”して知られるようになり、実際私のキャリアは有名になり、私生活において、その態度と責任感は模範となりました。スポーツ選手としては、南米の偉大なキャプテンエクトル・チュンピタス率いるウアンカジョの名門スポルティング・クリスタルや、デポルティボ・フニン、アレキパのマリアノ・メルガルのようなチームから誘いが来ました。(契約の話を持ってきた)スポルテング・クリスタルのコーチがチュンピタスと上手く行かずチームを辞めてしまったためこの話はなしになりましたが、諦めずウアンカジョのデポルティボ・フニンと契約し、キャンプ地ハウハまで旅しました。シーズン直前に地元アヤクチョへ里帰りすることにし、そこで思っても見ないときに私の人生の受難が始まってしまいました。

朝の7時45分、ちょうど実家に戻る時に思いもかけずバイク事故にあい、トラックにはねられたのです。最悪なことに、トラックの運転手は私が激突のショックで死んだと思って逃げたため、そのまま地面にほっておかれました。その後意識を失ってしまったので、もちろん何が起こったのか覚えてはいませんが、気がつくと私の家族に囲まれて病院の部屋で治療を受けており、母が号泣していました。なぜ私にこんな事故が起こったんでしょうか?日がたつにつれ、もっと悲惨なことに気がつきました。右足が3重骨折していたのです。悲しみに打ちひしがれながら全て終わってしまったと思い、これ以上生きることに意味を見出せなくなりました。病院では私の夢も計画もすべて終わってしまったのだと考えてばかりいました。ひどいことに医者は私にもうサッカーは辞めなさい、もうサッカーをすることはできないでしょう、もしまたサッカーを始めたら間違いなく一生身体が不自由になってしまいます、といいました。そんな残酷なことが現実に起こるとは信じられませんでした。さらにチームの代表者にそのことが知れ、契約を破棄するしかなくなり、チームのプランからもはずされ、私の人生は非常に辛いものとなりました。

このような悲劇の中、私の両親や兄弟たちは私に過去を忘れさせようと最大限に慰めてくれましたが、私のキャリアが終わってしまった1988年のことを忘れることはできません。事故から1年後、再び新しい人生を始めるために荷物をまとめて、消息を絶ちやりのこしていたことがあったまま去ったウアンカジョへに舞い戻り、人口の多いチルカ地区の28・デ・フリオのチームコーチとしての新しい仕事をしました。そして私のサッカーの経験と基礎知識のおかげで、チルカ・ウアンカジョの1軍リーグで仕事をすることとなったのです。そこで1年間みっちり働き、地区戦、州戦などで優勝したり、上位に勝ち進んだものの決勝でバスメルというウアンカジョ地区のチームに負けたりしました。他のもっと条件の良い人々と同様の、あるいはそれ以上の責任感を持って仕事したことで、次のチームとの交渉にこぎつけ、バスメルチームでコーチすることとなり、多くの選手権で良い成績をあげたことはとても素晴らしい経験でした。そうするうちに自分の体の状態を考えるようになり、私にとってサッカーは本当に過去のものとなってしまったのかを試すようになりました。そして、強い接触を避け、常に気を使いながらもシンプルなサッカーするようになりました。私にとって100%ではないにしろサッカーができるのだということは心強いことでした。経済的理由から、プロサッカーに昇格したウアジャスパンカと言うチームで短い間でしたが選手としてコーチとしての二役果たしました。辞めた後、ウアンカベリカの新しいチーム、ウダで指導し、ここで私の最初の指導者としての肩書きを手に入れ、チームを優勝させ、非常に強いサッカーへと導き、常勤としてその地域の様々な場所を旅しました。
この仕事が終わってからウアンカジョへ戻り、コーチのコースに通いながら、ウアンカジョのタンボ、パスコのオロジャ・セロ、ウアヌコ・サティポ、ラ・メルセド、アヤクチョのウチサ、など様々な場所のチームで指導をしました。強かった男子サッカーのことと私がいつも連れ立っていたチームメイトたちのことを覚えている人々が未だに沢山いるだろうと確信しています。
この時期は大変な責任を持って活躍し目標は達成したものの、プロ選手としては事故に遭ったことで責任半ばで放棄するしかありませんでした。プロサッカーを続けることが困難となり私が思い描いていた夢は果たすことができませんでした。しかし、コーチとしての第2の人生が始まり、この仕事で前進しつづけ、もっと躍進することができると確信することができました。そして様々な困難に立ち向かううちにふと、より良い機会を見つけるために新しい道を模索するために国外に出てみようと思いつきました。

こうして人生の第2段階を終わらせて、私ファン・フローレスは自己の向上のために日本へ行くことを決意したのです。私は模範的に振るまい、責任感のある人生を送ってきたと自負しています。日本人女性と結婚し、日本に定住し、プロとして秩序ある生活をしているおかげでシンシアノ・サッカー・クラブという子供のためのサッカースクールを東京に創立することができました。今後もラテン人と日本人両方からの信頼をうけてサッカーの地位向上を図り、強いサッカーを実現するためにさらに貢献していこうと思っています。

謝辞:
12人の兄弟を育て、教育し、温かい愛情を注いでくれた私の愛する両親の良き思い出と彼らを偲んで、その強さ、献身そして溢れる愛情に感謝します。そして私や私が愛してやまない家族を惜しみない愛情で支えてくれたかけがえのない妻と、最愛の子供たちに感謝します。さらにスポーツの王者と呼ばれるサッカーを普及させるにあたり私を支えてくれた、私の愛する生徒達と保護者の皆様、アシスタントコーチ達、当クラブのよき理解者であり本ホームページの作成及び調整役をして頂いた猪股十・有古ご夫妻、細部にまでとことんこだわってくれた翻訳の伊豫田史絵氏の多大なるご協力に心より感謝致します。